麻酔薬の作用する細胞は?
麻酔薬は、生存状態を保ちながら知覚と随意運動能力を抑制する。
まさに魔法のような薬であり、外科手術には必須のものである。
この過程においては、華岡青洲実の妻と母が実験台になり、妻は視覚を、そして母は命を失った。
今から見れば狂気ともとれるこの19世紀初めの発見は、それまで極めて小さなものでしかなかった外治医術に一大飛躍を遂げさせた。いわゆる「大手術」と称する外科の新領域を開拓したのである。
200年以上が経過した今では、毎年何百万人もの患者が全身麻酔による手術を受けている。
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この圧倒的な医学への貢献をみれば、麻酔薬の効くメカニズムはよくわかっていそうに思われる。
しかしながら、実のところ麻酔薬が効く分子メカニズムはこれまでほとんど明らかではなかった。
そこで今回、麻酔薬が作用する責任細胞をついに同定したかも、という論文を紹介する。
これまで麻酔薬は神経の活動を抑制すると考えられてきた。
一方、近年になって、麻酔薬は実は一部の神経を活性化させるのではないかという可能性が報告されていた。
そこで筆者らは、麻酔薬を投与した際に神経活動が活性化する脳領域を網羅的に探索した。(このスクリーニングで使用したのはイソフルランという麻酔薬)
また、SONは全く別の麻酔薬によっても活性化されること、すなわち麻酔薬は一般的にこのSONニューロンを活性化させることが示唆された。
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麻酔がある部位のニューロンを活性化させるというのは驚きの結果である。
では、この神経が活性化することは麻酔がかかるのに重要なのだろうか?
この問題に取り組むためには、このSONのニューロンを強制的に活動させる必要がある。
ここで、筆者らは活動したニューロンだけに感染するような特殊なウイルスを用いた。
このウイルスにオプトジェネティクスを仕込んでおけば、光依存的にウイルスの感染したニューロンを発火させることができる。(CANE法というらしい。すごい!)
この手法により、SONニューロンだけをラベルし、活性化させることに成功した。
そこで次に、この手法を用いて、SONニューロンを強制的に活性化させ、このときの麻酔の効きを測定した。
その結果、SONのニューロンの活性化により、麻酔の効いている時間が長くなっていることが分かった。
これは、麻酔によってSONニューロンの発火することが、麻酔が効くのに重要であった可能性を示唆する。
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これだけでも大変興味深い結果である。ところがさらに面白いことに、筆者らはSONニューロンが活性化されたマウスでは、睡眠状態のような状態になる傾向があることを発見する。
すなわち、麻酔状態と睡眠には密接な関係があることが示唆された。
(筆者たちは始めから麻酔と睡眠の関係を調べようと思っていたわけではないだろう。直感的にも分かりやすく、面白い発見。)
また、筆者らは麻酔と睡眠についてさらに実験を行っている。
端折ってしまうがまとめると、
- 眠気を感じた時にもSONのニューロンは活性化する(麻酔時と同じ)
- SONニューロンが活性化しないと正常な眠りが妨げられる
ことを発見している。
つまり、麻酔で活性化される脳領域(SONニューロンは)、正常な睡眠にも重要らしい、ことが分かった。
この結果は麻酔と睡眠が同じ脳領域で制御される可能性を提示した点でとても興味深い。
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以上が今回の大筋である。
この研究のハイライトは
- SONのニューロンの活性化は睡眠様の状態と麻酔の効果の持続をもたらすこと
- SONのニューロンは睡眠と麻酔を共通に制御する脳領域であること
であろう。
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この研究は素晴らしい研究ではあるが、SONニューロンは麻酔が効くのに必要であるかという点は十分には言い切れない。
しかし、この実験の結果、麻酔が持続する時間は少し短くなるものの、麻酔が効かないというわけではない、ことを見出している。
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今回の結果は麻酔が効く分子メカニズムの解明につながる大きな一歩であると期待される。それだけにとどまらず、麻酔と密接に関係していることが分かった睡眠や、意識の謎にも迫れる可能性を持つ大きな一歩である。
華岡青洲は麻酔を外科術に持ち込むことで、医学の新領域を開いた。
私たちは麻酔を分子生物学に持ち込むことで、生物学の新領域を切り開くことができるだろうか。
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参考
- A Common Neuroendocrine Substrate for Diverse General Anesthetics and Sleep, Neuron, 2019
- 『華岡青洲の妻』,1966